若い頃「大人になる」と息巻いていた時があった。
今考えると、ちょっと恥ずかしい。青い春。
でも、その時の私は、何が大人なのか分かってはいなかった。
嫌なことを我慢できる
弱音を吐かない
いつも笑顔
他人に優しい
なんでもできる
それなりにきれい
洗練されている
そんなことが大人だと思っていた。
巷には、「自分磨き」が自分のステップアップの鍵とばかりに、いろいろな商品が魅力的に並んでいた。
いろいろやってみた結果、ファッションにしろ、習い事にしろ、何物も、自分を成長はさせてくれたものの、本質にはさほど変わらないことが判明。
なぜなら、大人になることの定義があいまいで、方向の違った努力をしていたから。
大人になること。
その本質は「超えて含む」ことに限る。
今はそう思う。
ケン・ウィルバーは、発達を説明するなかで、それぞれの発達段階には、前の段階を「超えて含む」という性質があると言っている。これは、新たな発達段階は前の段階を包み込んでいるけれど、同時に、前の段階には全く存在してなかった新たな内容を付け加えているという意味なのだ。つまり、前の段階がもっていたものを全て保持しながら、そこに新たなものを追加するということ。
少し難しいけど、私にはとっても腑に落ちた。そうか。大人になるってこういうことね!と、素直に納得したのを覚えている。
じゃあ、私は何をしてきたんだろう。そして、多くの人がやりがちなこれは…。と思ったときに、次の文章が目に入ってきた。
2つのステップ(超えて含む)のどちらかがまずい方向に進むことがあります。
超えて含むの「超える」の面に失敗すると、その段階へ「固着」し続け、新たな段階において、固着しているその部分に「中毒」が発達することになります。
もし、「含む」の面に失敗すると、すなわち、前の段階を否定し、新たな段階から解離してしまうと、新たな段階において、認めてもらえない、望まれていない側面に対する「アレルギー」が発達することになります。
つまり、前の段階でやり残したことがあると、次の段階に行ったようにみえて、前の段階のやり残しにこだわってしまう。
そして、もうひとつの前の段階のやり残しの方では、前の段階の拒否したものへのアレルギーがでてしまうということ。
例えば、甘えたい年頃に大人に甘えられなかった子がいたとする。
超えるができない場合、小学校高学年の子が、とうに卒業していいはずの幼児向けのおもちゃを手放せないかもしれない。
また、含めるをできない場合、別の小さい子が、年齢相応の甘えを大人たちに出しているのを見て、こどもっぽいと否定してしまうようなことがあるかもしれない。
あぁ、なるほど。人が何か分からないけど刺激されてしまう(こだわりやアレルギーのために)ものの背景には、こういうことが関係してるのかもしれないと思った。
そして、やりがちなのは、大事なことを無視して大人のふりをする。
もちろん、もれなく私もこの一人だ。
話はもどるが、決して、最初に挙げた私的大人の条件が良くないと言いたいのではない。そして、これらは、ある程度こころが発達していないとできない。
せっかくなので、もう一度見ることにする。
嫌なことを我慢する
弱音を吐かない
いつも笑顔
他人に優しい
なんでもできる
それなりにきれい
洗練されている
結構難しい…。
こんな人がいたら、実はとても魅力的。
じゃあ、なんなの?
たぶん、中身なんです。
超えて含むができてるかどうか。
外見ばかり、上部ばかりになっていないか。
何を超えていないか、何を含まずにきたのか、少し見つめることができると違ってくるように思う。
大人になることは、子どもの自分をも含んで生きていくこと。
この気づきが自分を成長させてくれる。
大人になるための努力より、
子どもの自分を受け入れてあげること。
案外、遠回りのようで近道かもしれない。
引用文献:
インテグラル理論を体感する 総合的成長のためのマインドフルネス
コスモスライブラリー
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