昔、「人は見たいものを見る」と聞いたことがあり、「嘘!そんなはずないやん!」と、速攻で一刀両断したことがあった。
また、ある時には、スピリチュアル本でそんなことを読み「またまた~。スピだから仕方ないな~」(その頃の私は、スピリチュアルに超懐疑的)
でも、もう動かしようのない事実かのように、3度目がやってきた。それも、大真面目な専門書で。脳とか神経とか。その文脈で。
だから、自分の整理のためにも少し書いておこうと思う。
○まず、五感からくる全ての感覚入力が脳に電気的信号として入る。
○脳は、複雑なプロセスを通して、情報を選択し、フィルターにかけ、何に注意を向け、何を無視するかを決定している。
○全ての学習は、①~③の能力に依存している。
①感覚情報を環境および身体の内部から受けとる能力
②この情報を統合する能力
③次の行動を組織化する能力
※このプロセスは、私たちが感じているものに、何を関連づけるかによって影響される。
○知覚とは、「内的に生み出された感覚運動的イメージと、有機体をとりまく環境からくる、リアルタイムの感覚情報とを機能的に比較すること」。(by Llimas)
○知覚は感覚入力と内的照合枠との比較が基礎となっているので、私たちの知覚は(行動も)自己参照的になる。
○過去の同じような感覚刺激に対する私たちの信念と情動反応が、現在の刺激との関わり方を条件づける。
○「私たちは絶えず、知覚の下準備をしています。外界をわれわれが予想する感覚に合わせつつ、それらを予想通りのものとして知覚するのです」(by Ratey)
つまり、ざっくり言うと、
五感からの情報は、電気信号として、全部脳に入るのだけれど、情報処理される中で、過去の同じような刺激に対する考えや気持ちの範疇に当てはめて処理される。
外の世界で起きることを、予想する感覚に合わせつつ、それらを予想通りのものとして知覚する。
さらに、ざっくり言うと、
人は、いろいろな情報を取り入れる中で、過去の経験を元に、それに対する考えや気持ちに当てはめて、それらの情報を処理する。
そして、起きていることを自分の予想する感覚に合わせつつ、起きたことを予想通りのものとして知覚する。
つまり、人は見たいものを見る。
しかし、これには、反論があると思う。
これでは、自分に起きたことが、全部望み通りのように聞こえるから。
例えば、事故や事件、災害なんて誰も望まない。
ただ、自分の過去の経験から、望むと望まないに関わらず、気づきやすい刺激(情報)があり、気づきにくい刺激(情報)があるということだ。
そして、気づきやすい情報を頼りにその場を理解し、判断することになるが、それが望ましくない情報過多であればどうだろうか?
世界は、安心で安全な場ではあり得ないだろう。
つまり、自分の情報入力にはクセがあるなと気づき、「こうだ」と思った判断以外にも、他の可能性を探ることが大切になってくるのかもしれない。
見たいものを見る。
少し厳しいようだが、見えているものも自分の責任と言われているような気がした。
そして、片寄らず、柔軟なものの見方ができる大人でありたいと強く感じた。
きっと、優しいこころで世界を見ることができれば、優しい世界が見えるのだろうと思う。
私自身まだまだ難しそうだけど。少しずつ少しずつ、そうあるように歩みたい。
引用文献:トラウマと身体
パット・オグデン他